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マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。  
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また音楽の話題で恐縮だが、あえて続けたい。

 
駿河台の「主婦の友」社があった場所に、カザルス・ホールができたのは、もう昭和も押しつまったころだったと思う。

 
御茶ノ水の駅から駿河台を下ってすずらん通りへ行く途中、いつもそこが工事中だったのは知っていたが、わたしは上海から帰ってきたころに、立派な室内楽専用の音楽ホールが完成した、というニュースを聞いておどろいた。てっきり社屋を新築するだけのものと思い込んでいたからである。

 
たしかに上野の文化会館小ホールくらいしか室内楽を聴ける場所はなかったから、カザルス・ホールは一種の快挙といってよかったかもしれない。

 
もちろんその名をパブロ・カザルス(
Pablo Casals)にとったものであろう。もうそのころは逝去して十年以上もたっていたから、カザルスはすでに伝説中の音楽家であった。

 
とくにバッハの『チェロ無伴奏組曲』(ドイツ語では単にチェロ組曲「
Cello-Suiten」という)は、彼自身が失われていた楽譜を発見し再び世に復活させた功績は、誰も忘れてはならないものである。

 
しかしその演奏といえば、カザルスの個性そのものであって、バッハの音楽とは多少の齟齬をきたしていると言わざるをえない。その演奏ではバッハは後ろに下がり、カザルスその人が前面に出て自己主張をしている、そのように感じられてならないのである。

 
とはいえ、彼なくしてその曲は後世のわれわれに知られることはなかったのであるし、またチェロという楽器も伴奏楽器と思い込まれていて、独奏による芸術表現が可能であるとは誰も思ってもいなかったのである。それゆえ、カザルスの演奏すなわち『チェロ組曲』であった。

 casals.jpg










その後の音楽界には、ロストローポーヴィチイ、デュ・プレ
(Jaqueline Du Pré)、マイスキー、ヨーヨーマーなどのチェリストが輩出したことにより、カザルス以外の演奏が聴けるようになりカザルスの個性がますます引き立つことになった。

 
はっきりいってわたしには、カザルスの演奏が好ましいとは思えない。あまりに近代的すぎるのである。個性がむき出しすぎるのである。そんな類の自己表現が「芸術」ともてはやされた時代もあったのだ。大方は今でもそのとおりかもしれない。

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およそあらゆる芸術といわれるもののなかでは、音楽がもっとも無意識にうったえかけるものであること、諸兄諸嬢の納得されるところであろうと考える。

 

とくに原始的な打楽器のリズムでトランス状態になること、世界中のシャーマンが霊にアクセスするときに用いられるので知られている。

 

またさらに原始的な楽器、たとえば人の声、手足を打ち鳴らすことなども同様な効果があるようだ。

 

米国南部のゴスペルの合唱隊などが唄いながらトランス状態になっているドキュメント・フィルムも見た事がある。

 

音楽のもともとの効用とは、そのように人が無意識におりていって「神と対話」することにあったのかもしれない。

 

高度に発達した西洋クラシック音楽、たとえば交響曲でも実は同様であろう。

 

イタリアの指揮者で、ジュゼッペ・シノーポリ(Giuseppe Sinopoli)はとくにそのことを意識して、その音楽世界を形成しようとしたと思われる。

 

と、いうのは決して成功したとは思えぬからだ。

 

シノーポリは精神医学にこころざし、同時に音楽も専攻した。ジークムンド・フロイトゆかりのウイーンに学んだ事もある。

 

生前、彼のドイツ放送局のインタヴューをTVで見た。驚いた事には、彼の話すドイツ語の定冠詞がすべて女性複数であったことだ。これなら実に簡単である。それは余談であるが・・・。

 

彼の指揮するマーラーは、とくに心理学的に深い解釈がある、といわれていたが、わたしにはどうにもそうは聴こえなかった。

 

きっとわたしの耳が悪かったのであろう。

 

日本でもとくにシノーポリへの評価は高かったようであるが、死後その名声はいったい何処へ行ってしまったのだ、と問いたいほど忘れられてしまっている。

と歴史のお勉強のごときものを並べ立ててしまったが、ここからが大切な妄想の中心である。

 

学生が準備が整うと導師が現れる、という言葉がある。どんな立派な老師でもボケッとした学生では何も教えることができない事の反語的表現でもある。がしかし、この言葉どおりに受け止めてもよい。それは「偶然」に起こるのである。

 

「なにもの」かがそのように手配するもの、と考えられる。真理とはそのように伝えられるものなのであろう。

 

空海のシナへの遣唐使船乗船までの七年間の行方は謎である。故郷の四国の深山幽谷で日本古来の修験道の修行をなしていたともいわれる。

  

その行の終わりに室戸岬において明星が口に入るという、奇跡があったといわれる。

 

その奇跡の力のせいか唐に渡ってからはたった二年のうちにシナ語を修め、またサンスクリット語も学んだ。そしてシナ密教の最高阿闍梨・恵果から灌頂をうけてその後継者となったのである。

 

恵果はなぜ日本からの留学生・空海をその後継者に選び、灌頂をおこなったのであろうか?それはもちろん空海の器を見込んだからであろうが、あるいは恵果はもとからそのような後継者が現れるのをあらかじめ知っていたのかもしれない。

 

 

いずれにせよシナに渡った密教は、その正統な後継者・空海により日本へもたらされたのである。

以下は、あまりに荒唐無稽な妄想に類するものなので、他人の妄想に興味のある方だけにおつきあい願おう。

 

 「そのもの」の視点と意思を仮定してみよう。

 

 

「そのもの」は、インド北部に生まれたある者を覚醒させ、教団をなさしめ、その教えを民衆に知らしめた。いまからおよそ2600年前のことである。

 

ちょうどそのころ東の果ての島に「やまと」の国がつくられた。

 

 

われわれはまずこの「偶然」に驚こう。しかし、それが「そのもの」の意思であると仮定すればなにも驚くには値しない。

ここである仮説を述べておきたい。ことは宗教に関することである、が、わたしは宗教者ではない、ただいささかの経緯により仏教を信ずるにいたった自称仏教徒にすぎない。とはいえ、もちろん煎餅関係ではない。

 

 

それはユングの思想に関するものでもある。ユングは宗教と科学をクローズさせたと簡略化していってしまおう。

 

 

科学以前では、宗教こそが人間にとって現在の科学がもつ役割をになっていたものであるが、迷信に落ち込む事により科学の発展を促した。しかし科学もまた迷信されることにより人間の自由な思考を縛るようになって、また宗教の重要性が高まったといえるかもしれない。

 

 

ユングこそは、宗教を科学的にとらえることによりその両者が実は同一物であることを人間に理解させてくれたのかもしれない。それは「偶然」に科学の側からの宗教へのアプローチがあったからでもある。そのことについてはいずれ述べたいと思う。

 

 

今は、ある仮説についてである。

 

 

なぜ仏教は東進したのか?ということである。

 

 

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