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マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。  
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この稿は≪夢想千一夜≫の

【第十四夜】 死の街エルコラーノ

のための解説版としてエントリーしました。よろしければ、ついでにご覧ください。



ベルギーの作家・ローデンバックに、小説『死都ブルージュ』があるが、ブルージュ自体は死んではいない。ただ土砂がつもって港が使用不能になったため、かっての貿易港としての繁栄を失い、死んだような街となってしまった、ということだ。その街を背景に、死んだ妻の幻影を街でであった女に見て、その幻影を追いかける、というのがその小説に筋である。ブルージュ(フラマン語読みでは「ブルッへ」)は、いまはベルギー有数の観光都市として栄えている。

さてイタリアには、言葉の意味で真の「死の街」がある。いわずと知れたポンペイ(Pompei)である。西暦79年のベスビオ火山の大噴火により火山灰に埋もれ滅びた。18世紀(1748年発見)になり発掘がはじまり今に至る。ローマ時代そのままの街並みと建築が目の当たりにできる稀有な考古学的遺跡である。

しかしそれは破局のときそのままの死者の街である。

ポンペイは。ナポリ周辺地域観光の目玉の一つであるから、ご存知の方も多かろう。よってここではポンペイと同時に滅亡したもうひとつの「死の街」について述べよう。

エルコラーノ(Ercolano)は、ナポリからポンペイへ行く途中の海岸にある。ポンペイと比較してかなり小さく、半日もあれば全体を見学できる。ポンペイが全日かけても見切れない規模であるため、ローマ時代の建築生活様式を一望するためにはエルコラーノのほうが便利であるが、ポンペイほど有名ではないので訪れる観光客も比較的少ない。

わたしがそこを訪れたのはもう十年近く前になる。ちょうど友人の結婚式に招かれたのを機会に、それまで訪れようとして果たさなかった思いを果たしたのである。

現エルコラーノ市の中心街の坂を降りたところに遺跡の入り口がある。そこを入るとすぐ右手下に遺跡が広がっているのだ。それはベスビオ山の裾野が海へとなだらかに落ち込むその一角に位置している。

20世紀(1927年)になってブドウ畑であった場所に偶然発見された旧市街の遺跡は、地下20メートルの土の中から掘り起こされたのである。だから新市街から見るとちょうど崖下にあるように見える。

入り口から遺跡までは遺跡東側の坂道を降りて南東の隅にある。そこからは木のつり橋を渡って遺跡へと入る。そのときはわれら家族三人と、案内役兼ドライバーとしてついてきてくれた友人の友人の計四人であった。

さて件のつり橋を渡って入場しようとしたとき、まだ三歳にも満たなかった豚児が激しく泣き出した。入場したくないという意思表示であった。


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もと競馬場だった「人民広場」をつっきって西へ向かうと威海路にでる。そのままずっと西へ向かい茂名路を南へ折れてもとのフランス租界へ道をとるのが慣わしだった。
 

その道筋の交通量が比較的少なかったからだ。自転車走行にはそれがありがたかった。
 

また当時の威海路はふるい上海式の建物が連なりいかにも庶民が暮らしているな、という風情が味わえたからでもある。いまはどうなったかは知らないが、一階はブロックを積み上げ、二階は木造建てという様式が日本人には珍しかった。
 

歩道にもろもろの生活が屋内よりはみ出ているのを見物するのも興味深かったのである。
 

冬の日ポカポカする陽気なら、あちこちで街路樹の間にとおした針金になぜか布団の中身の綿だけを日干ししている光景がたくさん見受けられた。

 
夏の夕、帰りが遅くなったときなど、歩道に椅子をだして家族みんなで屋内のTVを眺めている光景にも出くわした。屋内が蒸し暑すぎてそんなことになってしまうのであったろう。夜には歩道と車道の段差を枕に睡眠している人々もいた。

 
いわゆる「国際都市」上海とはまったくちがったシナ人の暮らしがそうして歩道に展開されていたのである。

 
それは東京下町の長屋にみられた光景とどこか通じるものも感じられたのである。
その再会を約してでかけた日の夜、家内が不安そうな顔つきで帰宅した。VKL氏がその場所にあらわれなかったということだった。氏は約束を違えるような人物ではなく、もしなにか急用のある場合はかならずその旨連絡があるはずだし、不審に思って電話をしたが誰もでないという。
 
そしてこれから氏を訪問する、といってきかない。厭な予感にとらわれている、それを是非ともはっきりさせたいという。夜ももうかなり遅かったのでわたしは息子を寝かしつけるため家に残り、家内が一人ででかけた。
 
一時間もしたころであろうか、家内が電話で事の経過を知らせてきた。
 
呼び鈴をいくら鳴らしてもなんの返事もない。そこでアパートの管理人に部屋をあけてもらうことにした。合鍵で戸をあけようとすると中からチェーン式の鍵がほどこされている。管理人は警察にすぐ連絡するという。
 
家内はドアの隙間から椅子にもたれる氏のやや薄くなった後頭部をみてすぐに事態を了解したそうだ。
 
警察が到着し鍵を切り落とした。検死の医師は死後約二週間と判断した。

 
二週間前?

 
それでは旧市街で偶然出会ったその日ではないか?
 
管理人が最後に氏を見かけたのもその日の夕だったという。異常気候が記憶の助けになった。その日以降はまったく見かけなかったそうだ。管理人として手落ちであろうがそれを云々している場合ではない。
 
氏は肺気腫の持病をもち医薬にたよって暮らしていたそうである。なぜタバコをやめなかったのか。発見された際その手に握り締められていたのは気管支拡張剤スプレーであったという。あの日の異常な陽気により体調変化をおこし呼吸困難に陥ったものであることが想像された。
 
警察は他殺や犯罪の疑いなしと判断し身寄りに連絡して処理するよう提議したが誰もその身寄りを知らない。家内があちこち訪ねまわってハンブルグに住む伯父をさがしあてるのに数日を要した。
 
その伯父はイランの故郷に埋葬することを主張したが家族の現実論に負けてけっきょくハンブルグに埋葬することに同意し病院に仮安置された遺体をひきとっていったということだ。
 
家内は招かれて葬儀に参列し帰宅した後、あれからずっと考えていた事といって、ある考えをわたしに告げた。
 
それはわたしの考えと概ね一致していた。

 
あの日の不意の出会いは「意味のある偶然」であった、ということである。


 
氏は言葉の不自由さの故かほとんど友人らしい友人をもてず、家内とときたま大学へ通う電車で出会うと英語で話しができることを楽しみにしていたようだ。
 
あの日、何かの力により氏は家内とその家族にあわされたのではあるまいか?そうとしか考えようもない。
 
わたしはあの別れの時の不安な気持ちを今でもありありと思い出すことが出来る。そして氏のその時の微笑みも。
 
今も氏の住んでいたアパートの近くを通りかかるたびにわたしは氏のことを思い、氏が我々にもたらしてくれた思い出に感謝し、そして氏の冥福を祈るのである。
 
祖国をはなれ異郷に暮らす者のよるべなさを共有する身としてわたしは、氏を思うたびにいつもわが身を思う。そして氏が誇らしげに語ったことのある彼の故郷であるイランの古都イスファハンを何時かは尋ねてみたいと夢想する。
 
その時こそは氏の思い出をそこに埋めるのだと。

【再録にあたって】
イザにあげたこの物語は98%実際におこった事ですので、記念のためにこちら別館に保存しておこうと思います。


VKL氏は、亡命イラン人であった。英国に留学し工学の学位をとった氏は、シャーの現代化政策を支持し「革命政府」のイスラム原理主義に反対したからだ。

 

氏は「革命」後も一時は、開明派バニサドル首相の手腕に期待したようだったが、その夢もバニサドル退陣とともに破れ、故郷のイスファハン大学教授の席を棄て国際学会参加を機に英国へ亡命した。


 


その後、スイス、米国と渡り歩きドイツへ落ち着いた。英語しか離せない氏がえた職はある大学の特別研究員であったが日々の暮らしを英国仕込みのヒューモアで飄々と送っているようにも見えた。

 

氏は、市内のアパートに一人暮らしであったが、その暮らし向きは仙人かと思うほどつつましいものであった。


氏はモスレムではなくイラン古来のゾロアスター教を密かに信仰しているようであったが、それがどんな宗教であるかは多くを語らなかった。しかしニーチェの『
Also sprach Zarathustra(ザラスシュトラかく語りき)』への思いをとうとうと述べたことを耳にした事もあった。


 


その年の一月末は異常な暑さで春をとびこし夏になったかと思わせるほどの陽気であった。

 

我々家族は週末いつも日本食を摂りに市内へ出るのであるが、その日はその暑さゆえ普段と異なりインド料理を食べに旧市街へとむかった。

 

地下鉄の出口にあるカッフェーでぼんやりと外をながめるVKL氏をみつけたのは息子であった。

 

氏もこちらを見つけとびだしてきた。氏とそんな風に偶然出会うということは珍しかったからである。いつもは同じ大学に勤める家内と約しては家に招いたりしていたものだ。その度に氏は過分なお土産を我が家にもたらした。それらはいまでも我が家にあって氏を思い出すよすがとなっている。

 

我々はインド料理をこれから食べるのだ一緒にどうかと誘うと、氏はもう昼食は済ませたので一時間後にここでまた会おうというので約してわかれた。

 

食後の珈琲は店をかえてかなり長く話し込んだ。いつものように氏がもっぱら話し手で英国流のジョークをまじえての話に、こちらはフムフムと相槌をうつ役割であったが、一人暮らしの氏の境遇を思って不満はなかった。

 

そして家内は二週間後の再会を約して氏とわかれた。

 

氏がいつもと違い大袈裟に抱擁をしてきたのが気にかかった。しかもその際、氏の頭とわたしの頭がぶつかりあい痛くはなかったがそのカラーンとした軽い衝撃になぜか不安を覚えた。

 

(続きは次回に・・・)


西ベルリンの分裂時代の事実上の中央駅がゾー(Zoo,動物園)駅だった。

 

街の明かりがまぶしい。久しぶりの資本主義社会の賑わいがうれしい。にごった水からうかびでて新鮮な空気をいっぱいにすいこんだような気分だ。

 

車の排気ガスさえ薫り高いものに思われるのは、なぜだろう?

 

タクシーの運転手も、たぶんトルコ人だろうが、きさくな対応で気持ちがいい。いままでの悪夢を洗い流してくれるようだ。

道すがら、光輝くショー・ウィンドウとそぞろ歩く人々をながめる。

 

どの顔も満ち足りた表情をみせているように思われるのは、思い過ごしか?

 

こころがゆっくりとくつろいでゆくのがわかる。

 

ちょうど大陸から香港へでたときのような気分である。あのときは列車のホームで人々が列を作っていることさえ感動したものだ。

 

寝る前にひさしぶりに風呂をつかう。案の定、アカがいっぱいでた。


Abend__Kudamm.jpg

 
















http://members.surfeu.de/home/hobbyuo/imfotbildgraphpictur/Abend_Gedaechtniskirche_Kudamm.jpg


 

翌朝、ホテル近くのカッフェで朝食をとる。

 

時は、まさに薫風ふきすぎる五月である。

 

店のそとの通りに面したテラスに運ばれてきたフランスとドイツがミックスしたような朝食におおいに満足する。

 

雀やシジュウカラたちがおこぼれをあずかりに、テーブルにやってきて、とびまわっている。この野鳥たちは人間が彼らを害する生き物だとは、いっさい感じてはいないのだ。

 

パンのかけらをあたえてみると、よろこんで啄ばむ。

 

おもわず涙がこぼれた。

 

ああ、やっと人の住むべき社会に帰ってきたのだ、と思った。


berlin_kudamm_XXL.jpg




























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