マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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以下は、あまりに荒唐無稽な妄想に類するものなので、他人の妄想に興味のある方だけにおつきあい願おう。
「そのもの」の視点と意思を仮定してみよう。
「そのもの」は、インド北部に生まれたある者を覚醒させ、教団をなさしめ、その教えを民衆に知らしめた。いまからおよそ2600年前のことである。
ちょうどそのころ東の果ての島々に「やまと」の国がつくられた。
われわれはまずこの「偶然」に驚こう。しかし、それが「そのもの」の意思であると仮定すればなにも驚くには値しない。
さて後漢の明帝(28年―75年)は夢に金色に輝く人を見た。明帝は使者を西域の大月氏国に遣わし、二人の外国人僧侶と仏像経典を持ち帰らせた。そして洛陽に白馬寺を建てた。これがシナにおける仏教の始りである。68年のことであった。
明帝はなぜそのような夢を見、そして仏教招来をなしたのであろうか?
以下は年表風に重要な出来事を記す。
鳩摩羅汁(クマラージーヴァ)は、344年、インド人を父にクチャ国人を母に生まれた。彼は七歳で出家し、シナの辺境にいたためシナ語を学んだ。分裂時代のシナの西北にあった秦の末裔の小国に招かれて長安に来た後は、仏典の漢訳に従事し、『般若経』『阿弥陀経』『法華経』『維摩経』などきわめて重要な仏典を読んで理解できるシナ語に翻訳した。
インド人菩提達磨(ボデイダルマ)は、当時のシナは南北朝時代であるが、南朝の梁の武帝(在位502年―549年)のころシナヘとやってきて禅の開祖となった。梁の武帝は仏教に帰依していたからこれを保護した。
欽明天皇十三年(552年)、百済の聖明王の使者がわが国へいくらかの仏像、仏具、仏典をもたらした。これが「仏教伝来」とされているが信仰はまだない。
玄奘三蔵は、唐の太宗の貞観三年(629年)長安を密出国した。インドへの取教への旅のためである。鮮卑出身の唐は中央アジアをその支配下においていたためその旅行も可能であった。貞観十九年(645年)に三蔵は膨大なサンスクリット仏典を持って帰朝した。そのご十九年間のわたり三蔵はその仏典の漢訳に従事した。
聖武天皇は、天平十年(738年)国分寺、国分尼寺も建立を発願した。国家鎮護のためである。
延暦二十三年(804年)、最澄と空海は「偶然」同じ遣唐使派遣によりシナに赴いた。最長は天台大乗仏教を持ち帰り、空海は首都長安にて密教を学んだ。
空海がもちかえったシナ経由の密教は中期密教である。
こうして仏教はシナから日本へと伝播した。あるいは「そのもの」の意思により伝えられた。
密教は7世紀にインドで成立した新仏教である。ヒンドゥー教の勢力拡大によりインドでは衰退し、はやくから大乗仏教化したチベットへと伝わりそこで今に至る、後期密教である。その後、インドにおける仏教は弾圧をうけ溶解してしまったから、チベット仏教こそがもっともよく密教の真髄をつたえている。
シナがチベットを属国化し弾圧を継続し、さらに日本の属国化を狙うのはなぜか?それは、霊的世界とその盛衰を考えればおのずと答えは明らかであろう。
また、インド独立憲法の起草者であるビームラーオ・ラームジー・アンベードカル (B. R. Ambedkar)が再建したインド仏教は、ヒンドゥー教においては全く救いのないアンタッチャブルの支持をうけ「新仏教運動」として興隆をみる。
アンベードカルの没後は、日本人僧侶・佐々井秀嶺師がこれをひきつぎ、いまやインドの仏教信者は一億人ともいわれている。
ここにも日本人のただならぬ働きを見る事ができる。
シナ包囲網は外交軍事だけのことではないのである。