マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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およそあらゆる芸術といわれるもののなかでは、音楽がもっとも無意識にうったえかけるものであること、諸兄諸嬢の納得されるところであろうと考える。
とくに原始的な打楽器のリズムでトランス状態になること、世界中のシャーマンが霊にアクセスするときに用いられるので知られている。
またさらに原始的な楽器、たとえば人の声、手足を打ち鳴らすことなども同様な効果があるようだ。
米国南部のゴスペルの合唱隊などが唄いながらトランス状態になっているドキュメント・フィルムも見た事がある。
音楽のもともとの効用とは、そのように人が無意識におりていって「神と対話」することにあったのかもしれない。
高度に発達した西洋クラシック音楽、たとえば交響曲でも実は同様であろう。
イタリアの指揮者で、ジュゼッペ・シノーポリ(Giuseppe Sinopoli)はとくにそのことを意識して、その音楽世界を形成しようとしたと思われる。
と、いうのは決して成功したとは思えぬからだ。
シノーポリは精神医学にこころざし、同時に音楽も専攻した。ジークムンド・フロイトゆかりのウイーンに学んだ事もある。
生前、彼のドイツ放送局のインタヴューをTVで見た。驚いた事には、彼の話すドイツ語の定冠詞がすべて女性複数であったことだ。これなら実に簡単である。それは余談であるが・・・。
彼の指揮するマーラーは、とくに心理学的に深い解釈がある、といわれていたが、わたしにはどうにもそうは聴こえなかった。
きっとわたしの耳が悪かったのであろう。
日本でもとくにシノーポリへの評価は高かったようであるが、死後その名声はいったい何処へ行ってしまったのだ、と問いたいほど忘れられてしまっている。
わたしがもっとも愛聴するマーラーの交響曲であるが、なかでもレオナード・バーンシュタイン(Leonard Bernstein)がもっとも好ましいこと、すでにイザ・エントリーで述べておいた。
それでもあまりの評判のよさに、わたしが試しにシノーポリのマーラーを購入したのは【第五交響曲】(演奏、フィルハーモニア交響楽団)であったが、それが結局最後になってしまった。
つまり最初の一枚に失望して、それっきり、になってしまったわけである。
それに比べてバーンシュタインがウイーン・フィルを指揮した盤の彫りの深さはどうであろう。
【第五交響曲】は、トランペットのソロで開始されるが、そこへ重々しくかぶさるオーケストラの、そのゆっくりと生と死の狭間を掘り起こすような響きは、シノーポリにはない。
シノーポリが、いかに精神医学を学んだとはいえ、その音楽にはまったく反映されていない、と言わねばならない。
問題は、主観的意識による無意識へのアプローチではなく、音楽そのものの無意識的解釈にあるのであった。
バーンシュタインがどのように音楽を生きたかについては、いくつものドキュメントがあるが、なにより残された録音を聴けば、そして聴く(無意識の)耳さえあればよくわかることなのである。
さて、無意識にどう響くか、などとは考えずに、体と心をリラックスさせ、今夜もマーラーの音に浸ることにしようか。