マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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にゃんこさんの、ヤマガラの写真で、Rotkehlchen を連想し、さらにかっての探鳥の趣味を思い出したわけですが、そのRotkehlchenについては、ハドスンは「ロビン(赤胸の)」と紹介しています。なぜなら(たぶん)Robin というと英国と米国では同名異種の鳥を指すからだと思います。ゆえに Robin( Redbreast) と定義したのでしょう。欧州でロビンは「ヒタキ」科に属す鳥です。
さてそのRotkehlchenは 毎冬、あたしの小さな庭先の餌場にやって来ます。主賓はいつもカラ類、四十雀、ヒガラ、コガラの類が最低二三羽一緒に騒がしく餌をつついては、またあわた だしく去って行きます。その後に小さな朱色の胸をした可愛らしい小鳥がおどおどやってきては、下に落ちた餌を啄ばみます。時には、そばの塀にたってこっち の方を見ていることもあります。好奇心はかなり強そうな鳥ですが、臆病そうでもあります。
日本では見かけない鳥なので図鑑を引いてRotkehlchen(Robin Redbreast) の名を知りました。
そのロビンにつきハドスンは、面白い話を紹介しています、
「冬になると人間のもとへパン屑をもらいにき、人間への愛着が強くて、林や無人の地で倒れた人がいると、その死体の上に木の葉をかぶせるという赤胸のロビン」
「子供たちについていえば、ナイチンゲールにはあいにく伝説上、気にかかるようなことが何もない。赤 胸のロビン、またはエリザベス朝の詩人の呼んだ美しい名を借りるなら「黄色い秋のナイチンゲール」にはそれがあるのに。(中略)巣を取ることにかけては最 も無情な村の腕白坊主でさえ、ロビンにだけは手をつけない。ロビンの巣を害すると悪いことがおこるとか、手が萎えると言われているからだ。」
なにか人間との特別な関 係が感じられるじゃあありませんか。しかし美声の持ち主のナイチンゲールと引き合いに出されるほど美声なのでしょうか?いつも冬にしか見かけないのでしか とは分かりません。あるいはその鳴き声を耳にしていても姿を見ていないので知らないだけなのかも知れません。
しかしいずれにせよ、あたしにとっては冬の生活を慰めてくれる貴重な隣人です。ここ数年ずーと同じ鳥を見かけますが、あるいはすでに代替わりをしているのでしょうか?いつまでも訪れて欲しいお客さまです。
『鳥たちをめぐる冒険』(黒田昌子訳。講談社、昭52年)は『Adventures among Birds』W.H. Hudson, 1913,の和訳本です。木版画の挿絵が豊富に入った美しい本です。原文は読んでいませんが、こなれた日本語なのでなんの違和感もなく読め、一時はわたしのバイブルでした。
さてその中にはいくつも日本では見られない鳥たちが紹介されていました。
一つめが、「クロウタドリ」索引によれば「Blackbird」とあります。ビートルズの『White Album』に同名の曲があるのをご存知の方は多いでしょう。そこにはその鳴き声もちゃんと録音されています。この曲を始めて聞いた中学生のわたしは、「なんて美しい声なんだろう」としか思わず、その姿がどうかなど思いも及ばなかったのです。
さてその「クロウタドリ」は、ハドスンは次のように紹介しています。
「そして何よりもあのクロウタドリ、黄金色の嘴とフルートの音声を持つ、黒檀色の大ツグミ。」
「私が寝ていたすぐ横の壁の外側に大きなねずこの木があって、ちょうど枕の高さのところにクロウタドリが巣をつくっていた。毎朝三時半から鳥はうたいはじめた。短い間をおいて何度もくり返し、ほぼ三十分もうたいつづけた。」
いろいろと想像してみるのですが、どうもイメージがわきません。挿絵をみても、黒いツグミとしかわかりません。
それがやっとわかったのは、はじめてドイツを訪れた時のことです。ちょうど初夏のころでした。夜もまだ明けぬころ、窓の外のお向かいの庭で何やら知らず美しい鳥の鳴き声が聞こえてきます。その頃はまだ「友達」だった今の家内にあれは何かと尋ねますと、「Amsel」というのだと教えられました。
それが「Blackbird」だと知ったのはずっと後のことでした。そして公園などでよく見かける嘴の黄色い小さなカラスのような、しかしよく見ればツグミの類にちがいない鳥が、そのAmselだと知るまでもまた少しの時が必要でした。
しかし分かってみると、ハドスンが描写した「クロウタドリ」がいかに的確だったかが納得されました。そして和訳の「クロウタドリ」も,
黒くてよく唄う鳥、まさにその通りではありませんか。
いまでは、この「Amsel」が唄いだすのを、それは巣つくりのためのメスの注意を引こうとするオスの求愛の唄なのですが、またオス同士が縄張りを主張しあう啖呵でもあるわけですが、「ああやっと晩春だ、もうすぐ夏が来る」と心をウキウキさせて待つおいちゃんでした。
探鳥についていささかの薀蓄をば、いやみにならない程度にぶちまけようと思います。ってももう現役じゃないので、昔の思い出話になりそうなのが年寄りくさくてやなんですが。
探鳥とは普通、バード・ウオッチング(Bird Watching)などとアメリカ語で呼ばれますが、あたしはあえて「探鳥」と呼ばせていただきます。意味は特にありません、ただ日本語としての語感の個人的趣味に過ぎません、あしからず。
じつは、あたしが探鳥にのめりこむ前は、スポーツ・フィッシングをやっておりました。ルアーとかフライとか、疑似餌を使う、おもにサケ・マス科の魚類を対象とする釣りです。
よって釣り場所は、おもに渓流や山の湖になります。これだけでも積もるハナシがたんとあるんですが、今回は探鳥がテーマですから、思い切りはしょります。
さて高山地帯でひたすら「つれない」(駄洒落わかってね、お願い)魚たちに向かって竿を振り続けていると、もちろんだんだん飽きが襲ってきます、「ああもう今日は駄目かな」とか、「魚がいないんじゃあないか」とか。そんな心が虚しくなる時、ふっと耳についたのが遠くの方で鳴くカッコウの声でした。山に木霊する「カッコー、カッコー」という澄み切った声、魅せられました。
そしてだんだんと魚よりも野鳥のほうに興味が移行していったのです。
疑似餌釣りは、キャッチ・アンド・リリース(Catch and Release)が基本ですから釣りあげた魚はまた放流しますが、それでも魚体を必ず傷めます。それと比較するとただ野鳥を眺めるだけの探鳥のほうがいかに自然にやさしいか、と赫然として「無益な殺生はもう止めよう」と、いわば悟りにいたったわけです。そのフィールドがそれまでの釣り場と重なっているのが好都合でした。
そして何か始める時の個人的な癖にならって、関係する本をまず読み始めました。
なかでも感銘をうけたのが、斯界の大先達・中西悟堂先生の『野鳥記』と、W・H・ハドスンの『鳥たちをめぐる冒険』でした。