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マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。  
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この稿は、イザ版の

http://marco-germany.iza.ne.jp/blog/folder/38859/ に続くものです。

 

 

「ワイン街道」の紹介の前に、イタリア語村からドイツ語村に嫁入りしたパオラ伯母さんについてのささやかな物語を述べたいと思います。

 

わたしから見て伯母という年齢とはいえもう83歳。でも脚が少し不自由な以外はきわめてお元気なようすです。

 

パオラ伯母さんは家内の家族が昔よくお世話になったサマー・ハウスの所有者です。

 

ところは「Fernberg」(遠い山)という、その名のとおり山道をうねうねと上がったどんづまりにその村はあります。それ以上は車では行けません。

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村の教会


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サマーハウス。かろうじて電気は通じているのが電線でわかる。




そこがドイツ語圏のほぼ西南端、山の向こうの谷間からはもうイタリア語圏がはじまるところ。

 

パオラ伯母さんはそちらの村からこちらの村へ嫁入りして来ました。どうして言葉の違う村に来ることになったかについて伯母さんははずかしがって教えてくれません。

 

伯母さんが生まれたときはもうイタリア化まっさかりの時代、南チロル全域イタリア語が強制されていました。だから伯母さんがやってきた村も役場や警察はみなイタリア語、でも家庭内ではちと事情がことなりました。

 

村はあくまでドイツ語共同体、イタリア語だけでは用がたりません。だからおばさんもドイツ語をしゃべるようになりました。

 

でも子供ができてからは子供たちとはイタリア語の会話。というわけで家庭内では独伊のバイリンガルとなりました。

 

伯母さんは、八人の子供を生んで、しかし育ったのは男四人女二人の六人だけ。そして数年前、息子の一人を病気で先立たせてしまいました。だから子供たちの話になったときは悲しそうです。

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次男はその父親とうまくゆかず同じ村に別居、20世紀も終わりの年に最愛の夫が牛の角に眼を刺されてそれがもとで亡くなり、三男が伯母さんと一緒に住んでいるだけ。

ほかの子供たちは他の家の子供たち同様に村をすてて
MeranInsbruckに働きに行って帰ってきません。

 
















伯母さんと三男


伯母さんの日課はすこし離れた教会に散歩をかねて祈りに行くこと。悩みの種は三男にとうとうお嫁のきてがいなかったこと。だから誰も跡継ぎがいないこと。

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左が教会、右が伯母さんの家。


そして自分の生まれたイタリア語村にはもう誰も身寄りがいないこと。

 

教会におまいりするたびに何を祈っているのかは伯母さんしか知りません。

 

パオラ伯母さんどうかご無事で長生きしてください。

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その再会を約してでかけた日の夜、家内が不安そうな顔つきで帰宅した。VKL氏がその場所にあらわれなかったということだった。氏は約束を違えるような人物ではなく、もしなにか急用のある場合はかならずその旨連絡があるはずだし、不審に思って電話をしたが誰もでないという。
 
そしてこれから氏を訪問する、といってきかない。厭な予感にとらわれている、それを是非ともはっきりさせたいという。夜ももうかなり遅かったのでわたしは息子を寝かしつけるため家に残り、家内が一人ででかけた。
 
一時間もしたころであろうか、家内が電話で事の経過を知らせてきた。
 
呼び鈴をいくら鳴らしてもなんの返事もない。そこでアパートの管理人に部屋をあけてもらうことにした。合鍵で戸をあけようとすると中からチェーン式の鍵がほどこされている。管理人は警察にすぐ連絡するという。
 
家内はドアの隙間から椅子にもたれる氏のやや薄くなった後頭部をみてすぐに事態を了解したそうだ。
 
警察が到着し鍵を切り落とした。検死の医師は死後約二週間と判断した。

 
二週間前?

 
それでは旧市街で偶然出会ったその日ではないか?
 
管理人が最後に氏を見かけたのもその日の夕だったという。異常気候が記憶の助けになった。その日以降はまったく見かけなかったそうだ。管理人として手落ちであろうがそれを云々している場合ではない。
 
氏は肺気腫の持病をもち医薬にたよって暮らしていたそうである。なぜタバコをやめなかったのか。発見された際その手に握り締められていたのは気管支拡張剤スプレーであったという。あの日の異常な陽気により体調変化をおこし呼吸困難に陥ったものであることが想像された。
 
警察は他殺や犯罪の疑いなしと判断し身寄りに連絡して処理するよう提議したが誰もその身寄りを知らない。家内があちこち訪ねまわってハンブルグに住む伯父をさがしあてるのに数日を要した。
 
その伯父はイランの故郷に埋葬することを主張したが家族の現実論に負けてけっきょくハンブルグに埋葬することに同意し病院に仮安置された遺体をひきとっていったということだ。
 
家内は招かれて葬儀に参列し帰宅した後、あれからずっと考えていた事といって、ある考えをわたしに告げた。
 
それはわたしの考えと概ね一致していた。

 
あの日の不意の出会いは「意味のある偶然」であった、ということである。


 
氏は言葉の不自由さの故かほとんど友人らしい友人をもてず、家内とときたま大学へ通う電車で出会うと英語で話しができることを楽しみにしていたようだ。
 
あの日、何かの力により氏は家内とその家族にあわされたのではあるまいか?そうとしか考えようもない。
 
わたしはあの別れの時の不安な気持ちを今でもありありと思い出すことが出来る。そして氏のその時の微笑みも。
 
今も氏の住んでいたアパートの近くを通りかかるたびにわたしは氏のことを思い、氏が我々にもたらしてくれた思い出に感謝し、そして氏の冥福を祈るのである。
 
祖国をはなれ異郷に暮らす者のよるべなさを共有する身としてわたしは、氏を思うたびにいつもわが身を思う。そして氏が誇らしげに語ったことのある彼の故郷であるイランの古都イスファハンを何時かは尋ねてみたいと夢想する。
 
その時こそは氏の思い出をそこに埋めるのだと。

【再録にあたって】
イザにあげたこの物語は98%実際におこった事ですので、記念のためにこちら別館に保存しておこうと思います。


VKL氏は、亡命イラン人であった。英国に留学し工学の学位をとった氏は、シャーの現代化政策を支持し「革命政府」のイスラム原理主義に反対したからだ。

 

氏は「革命」後も一時は、開明派バニサドル首相の手腕に期待したようだったが、その夢もバニサドル退陣とともに破れ、故郷のイスファハン大学教授の席を棄て国際学会参加を機に英国へ亡命した。


 


その後、スイス、米国と渡り歩きドイツへ落ち着いた。英語しか離せない氏がえた職はある大学の特別研究員であったが日々の暮らしを英国仕込みのヒューモアで飄々と送っているようにも見えた。

 

氏は、市内のアパートに一人暮らしであったが、その暮らし向きは仙人かと思うほどつつましいものであった。


氏はモスレムではなくイラン古来のゾロアスター教を密かに信仰しているようであったが、それがどんな宗教であるかは多くを語らなかった。しかしニーチェの『
Also sprach Zarathustra(ザラスシュトラかく語りき)』への思いをとうとうと述べたことを耳にした事もあった。


 


その年の一月末は異常な暑さで春をとびこし夏になったかと思わせるほどの陽気であった。

 

我々家族は週末いつも日本食を摂りに市内へ出るのであるが、その日はその暑さゆえ普段と異なりインド料理を食べに旧市街へとむかった。

 

地下鉄の出口にあるカッフェーでぼんやりと外をながめるVKL氏をみつけたのは息子であった。

 

氏もこちらを見つけとびだしてきた。氏とそんな風に偶然出会うということは珍しかったからである。いつもは同じ大学に勤める家内と約しては家に招いたりしていたものだ。その度に氏は過分なお土産を我が家にもたらした。それらはいまでも我が家にあって氏を思い出すよすがとなっている。

 

我々はインド料理をこれから食べるのだ一緒にどうかと誘うと、氏はもう昼食は済ませたので一時間後にここでまた会おうというので約してわかれた。

 

食後の珈琲は店をかえてかなり長く話し込んだ。いつものように氏がもっぱら話し手で英国流のジョークをまじえての話に、こちらはフムフムと相槌をうつ役割であったが、一人暮らしの氏の境遇を思って不満はなかった。

 

そして家内は二週間後の再会を約して氏とわかれた。

 

氏がいつもと違い大袈裟に抱擁をしてきたのが気にかかった。しかもその際、氏の頭とわたしの頭がぶつかりあい痛くはなかったがそのカラーンとした軽い衝撃になぜか不安を覚えた。

 

(続きは次回に・・・)

さて豚カツですが、洋食屋ではカツレツと呼ばれる物がいつのまにか豚カツという和食に化けた経緯については詳しい研究をしたわけではないので知りません。

 

ただ前回紹介した、ウィンナー風、ミラノ風、またドイツ風ともにあくまで主食は肉片とそれをつつみこんだパン粉および油脂成分であることを承知してほしいのです。

 

ウィンナー風は、前回ごらんのとおり皿からはみ出すほどの大きさですね。でも食してみると大したことはなく実にあっさりした味わいです。

 

ゆえにドイツ人はそれを小腹が空いたときやご馳走を食べ飽いたときに食す、と述べました。ゆえなきことではないのです。

 

この肉が主食という習慣に慣れるのにはずいぶんと時間を要しました。

 

なぜって我々の食習慣からすればオカズだけをむしゃむしゃ食べているようで、「ああ、炊き立てのご飯があればもっとおいしく食べられるのになあ」といつも思うばかりでした。

 

われらの米を主食とする食習慣が「カツレツ」をして「豚カツ」に変化せしめた最大の理由ではないかと考えることに無理はなかろうと思う次第です。

 

その豚カツですが、小津安二郎の遺作・『秋刀魚の味』に佐田啓二の兄が岩下志麻の妹の意を受け同僚に妹と結婚する気があるかどうかたずねる場所に豚カツ屋が利用されていました。

 

彼ら二人はご飯なしで豚カツをビールとともに食し、その同僚はおかわりさえします。あれが正しい洋食の食べ方といってよいでしょう。とすればあれは「カツレツ」だったのでしょうか?

 

ご飯はあくまでオカズ、といってわるければ添え物といいかえましょう。

 

しかし日本の家庭における食卓ではそうも行かず、昭和30から40年代は、かなりリッチなオカズとして食卓に子供たちの歓声とともに迎えられたものです。

 

そういう豚カツが懐かしい。

 

わたしはまだ日本に住んでいたときたびたび鎌倉へ日帰り旅行をしました。東京からのアクセスのよさ。京都とは一味ちがう日本の古都風情。しかも海に面した地勢。禅寺が甍を並べる霊的な雰囲気等々すべてがよろしいわけですが、鎌倉へ行くたびに昼食は駅前の、(といって八幡宮とは反対側、そう江ノ電があるほうといったほうがおわかりやすいと思いますが)『勝烈庵鎌倉店』の豚カツを食したものでした。

 

ご飯の炊き具合もよろしいし、手作りのソースもトロッとしてまことに結構、蜆汁も懐かしい味。

 

 

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鎌倉定食」(ロース、ヒレ、エビ)



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じゃじゃーん、「ヒレカツ定食」にあたるスポット・ライト




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蜆を食す豚カツならぬ豚児

写真はすべて数年前の一時帰国の際撮影

 


ああ、日本へ帰りたい、鎌倉へ行きたい、『勝烈庵』の豚カツが食べたい、とウィンナー風カツレツをモソモソ食しながら考えたわたしはやはり日本人なのだと激しく自覚した次第です。

チャップリンの映画≪独裁者≫は、ヒトラーをおちょくったことで有名ですが、そのなかにヒトラーをパロってドイツ語風のわけのわからない言葉とヒトラー独特のアクセントで演説をする名場面があります。

 

その中でひとこと「ウィンナー・シュニッツエル・ミット・ザワークラウト」とはさんでドイツ語らしさを演出(?)するという場面がありました。

 

それは「ウィーン風カツレツ、ザワークラウト添え」というわけですが、それほどポピュラーなドイツ(オーストリア)料理です。

 

すなわち「シュニッツエル」(Schnitzel) 即「カツレツ」(Kotelett)ではあるのですが、じつは「シュニッツエル」が調理法で「カツレツ」は「あばら肉」という意味なんです。

つまり日本語で言う「カツレツ」は本来素材名であったものを調理法に代用しているわけです。あるいは誤解していると言うべきでしょうか?


で、どこがウィーン風かといえば子牛のあばら肉ではなく腿肉や肩肉を薄く切ってさらに薄くたたきのばしてパン粉をつけて油であげる、というものです。

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ウィーン風




ミラノ料理で有名な、「
Cotoletta alla Milansee」(ミラノ風カツレツ)がまさにそれと同じですが、しかしミラノでは骨付きの本当のカトレットすなわち「あばら肉」を使用するのが本格なようです。

ミラノですから油はバターを使用します。

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ミラノ風




ながくハプスブルク・オーストリア帝国に支配されたロンバルデイア地方ゆえにウィーン風が定着したのでしょうか。それともミラノ風がウィーンに伝染したのでしょうか?謎は深まるばかりです。どなたか真相をご存知ありませんか?

 

しかしそこから見ると、関西にあるという牛カツはただしく「カツレツ」の伝統をひくものかも知れません。

 

しかし豚肉好みのドイツ人は、豚肉を主に使用してこの「シュニッツエル」をつくります。ウィーン風に大きくたたき伸ばすのではなく、うす切にしてすこし叩くという程度でしょうか。

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そしてドイツの「ウィーン風カツレツ」はなぜかいつも二枚給されるのです。

小さいのを恥じてのことでしょうか?そしてウィーン風にはない付け合せは、ザワークラウトならぬ例のポメスとだいたい決まっています。

 

そして、ドイツ人が「なんだか食欲がないなあ」とか、「おいしいものを食べ過ぎたなあ」なんてときに食すのがこの「ウィーン風カツレツ」なのです。

 

今回の休暇中も、メニューに食べたいものがないとき、わたしもこれを二度ばかり食しました。さすがにオーストリア文化圏にある南チロルは本当のウィーン風、ということはなくまったくのドイツ風でしたが、けっこう美味でした。

 

さて豚カツについてのべるスペースがなくなりました、続きは次回にて。

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