マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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しつこいようだが、さらに続けて音楽の話題である。
前回は、カザルス的な近代自我を強調するような音楽表現に苦言を呈しておいたが、今回はその逆を見てみよう。
あいもかわらずバッハで恐縮である。しかしバッハはバロック音楽の集大成まるで大海のような豊かさに満ちた音楽世界なのであるから、致し方ない。
その名の小川さん(Bach、すなわち小川)にふさわしからぬ偉業であった。
とはいえそれはメンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)に発見されるまでは忘れ去られていた音楽世界でもあったのだ。
そのバッハの音楽を古楽器で演奏するオーケストラがわが日本にある。
鈴木雅明・東京芸大教授が設立したバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)がそれである。
最近、ドイツのFMでも盛んにその録音が紹介されるので、たぶん日本の皆様はとっくにご存知のことと思う。
しかしその演奏は古楽器によるものとは思えない水みずしさにあふれて、実に好ましいものだ。
バッハの古楽器演奏といえば、トレヴァー・ピノック(Trevor David Pinnock)があまりに有名であるが、その演奏をBCJと聴き比べてみると、あまりに素朴がすぎ、古楽器そのものへの興味はつきないものの、音楽自体が枯れすぎていて、なんだかつまらなく聴こえてしまう。
そこへ行くと、わがBCJの演奏はまるで近代楽器かと思わせる豊かな音量と音の伸びやかさをもっている。
人それぞれの趣味の問題があるとはいえ、もうピノックを、わたしは聴きたいとは思わない。次々と録音発売される鈴木雅明氏の盤だけを楽しみにしていればよいのであるから。
鈴木氏の音楽には、わたしが思い描くバッハの音楽がそのまま息づいている。カザルスのようにバッハはただの素材、自分こそが主役、といった近代的自我の発露が見られない。