マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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ユングの自伝には、興味深い夢がいろいろ記されているが、以下の夢は一段と興味をひく。いま手元に該書がないので、うろおぼえの記憶で大意を記す。
このブログは学術論文ではないので良とされたし。
夢で、彼は暗い道をカンテラをもって歩いていた。風が強く、カンテラはまさに「風前の灯火」のように危うい。かれは必死でその小さな灯火を守りながら夜道を行く。後ろには大きな影が自分を追いかけているようだ。それはその灯火によるものであった。
ユングは、その灯火を自我意識、後ろの大きな影を無意識であろうと分析している。真っ黒な闇夜に灯され、必死でまもらなければ風に吹き消されてしまうほど、その存在は危うい。
無意識の全体像は、われわれの意識においては把握不可能なので、科学の対象にはならないのである。しかし、ユングは悪戦苦闘のうえ重要な仮説(ヒポテーゼ)を提出した。
ユングによれば、「夢の告知」、「シンクロニシテイ」などが無意識がわれわれに伝えてくれる重要なメッセージということだ。
また彼の患者が死亡する二ヶ月前に見た夢として(これもうろ覚え、ごめんなさい)、
ある教室か講堂で多くの人々が講義を待っている。彼女は後列の方で待っていたが、だれも講師は現われない。しかし彼女は悟る。講師は自分なのだと。
ユングの仮説によれば人は死んだ時点でもっていた智識だけを霊界に携帯できるらしい。ゆえに、死者たちは新しい死んだばかりの者の智識を知りたがる、ということだ。それゆえユングはその患者がまもなく死亡する事を予見したということだ。
つまり彼のいう集合無意識は人類共通のものであるが、そこには死者は含まれないのだ。そこが時空をこえた「タオ」や「悟り」とことなる点である。
しかしユングはつづけて、だからこそ、われわれが生まれてくる理由がある、というのである。つまり生者の智識が時空を越えて死者にも共有されるなら、一人一人が生まれ、そして苦労してその人生を送る意味がないということである。
人は、それぞれの灯火をもって暗い風雨の夜道を行く。はかなく頼りないその灯火をまもりながら。けっこういい話ではあるが、どうもヨーロッパくさい。
しかしユングは、ヨーロッパ人の意識と無意識を探求したのである。それをわれわれのこととして生かすかどうかは、われわれ次第である。
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