マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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もと競馬場だった「人民広場」をつっきって西へ向かうと威海路にでる。そのままずっと西へ向かい茂名路を南へ折れてもとのフランス租界へ道をとるのが慣わしだった。
その道筋の交通量が比較的少なかったからだ。自転車走行にはそれがありがたかった。
また当時の威海路はふるい上海式の建物が連なりいかにも庶民が暮らしているな、という風情が味わえたからでもある。いまはどうなったかは知らないが、一階はブロックを積み上げ、二階は木造建てという様式が日本人には珍しかった。
歩道にもろもろの生活が屋内よりはみ出ているのを見物するのも興味深かったのである。
冬の日ポカポカする陽気なら、あちこちで街路樹の間にとおした針金になぜか布団の中身の綿だけを日干ししている光景がたくさん見受けられた。
夏の夕、帰りが遅くなったときなど、歩道に椅子をだして家族みんなで屋内のTVを眺めている光景にも出くわした。屋内が蒸し暑すぎてそんなことになってしまうのであったろう。夜には歩道と車道の段差を枕に睡眠している人々もいた。
いわゆる「国際都市」上海とはまったくちがったシナ人の暮らしがそうして歩道に展開されていたのである。
竹製の長いすを路地に出して、その下に蚊取り線香をおいてその煙にむせながら、近所の女の子が浴衣を着て線香花火をチリチリさせている。そんなこともちらと目に浮かぶほどだ。
それは何にも代えがたい生活の大切さをしみじみと感じさせれる光景だった。
そうなのだ。シナの社会が日本とどれほど異なっていようとも、その社会にはそれなりの生活があり、そして人々がせいいっぱいそれなりの日々を送りつづけているのである。
その実感は、シナに暮らしてみてわかったことで、書物になにがどう書かれていようとどうしても身にしみて理解できなかったことである。
だから今、これを読まれている読者にもわからないことであろうと想像する。
その通りに漂っていた菜種油の匂いや腐った野菜の臭い、さまざまな人の声や物音が重なり合った喧騒、晴れ晴れとしない空の色合いと建物の廃れ具合などなど、その場に身を置いて見なければ永遠に知ることのできない雰囲気があるのである。そしてそいう些細なことが、いつまでも脳裏に忘れがたく貼りついて離れない。
「シナという病」がどうこう言い立てても、彼ら彼女は聞く耳をもたないだろう。ただただその生活をつづけて行くだけなことはわかりきっているのだ。
それはそうであるのだが、しかしまた明日は、シナ文明がどうしたこうしたという誰に頼まれたわけでもない雑文を労せずにはいられないだろう。
あるいはあの庶民の生活の臭いが、どこをどうめぐりめぐるのかは知らないが、わたしをして、何とかシナ文明と文化を掘り下げたいという欲求を促しているのかも知れない。
そのシステムは意識化はできないが書き進めるうちにわかって来るかもしれない、という淡い期待もある。それゆえ続けるしか方法はないようである。
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