マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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流行性感冒さまがおでましになり大いにその威力を発揮されたため、三日間ひたすら畏れ入って過ごした。
この機会にと、もう何度目かの池波正太郎『剣客商売』シリーズを読むことにした。寝床でうつらうつらして目が覚めると読み、読み疲れたらまた眠る。そうしてシリーズ六巻目までを読んだ。
気力体力衰え速度も遅い。だが大いに力づけられた。お読みの方はとうにご存知と思うが、秋山小兵衛の恬淡とした隠居振り、善も悪も紙一重という世を見とおす眼力、物事を処理するときの世事に通じた見事さ、などなど、何時読んでも教えられものが多いし、また読んで愉しいものだ。
しかしここで書こうと思うのはその感想文ではない。
ふと思いをはせたのは、このような面白いシリーズを何本も雑誌に連載を持ち、そして力を出し切るように病に倒れた作家のことである。
池波正太郎の文章から立ち上がってくるのは、人の世を知り尽くした大人の味そのものである。酸いも甘いも知り尽くし、人生の苦味を噛みしめた後の味わいであろうか。
こちらが歳を重ねるごとに、その味わいも深まるようである。
その読後感は、古典というカテゴリーに含まれる作品がもつ特性そのものであるが、あくまで純文学が中心の日本の「文壇」では池波正太郎作品の評価が高いものとはとうてい思われない。
あの司馬遼太郎でさえ「文学」として評価されないほどであるから、いかに読者の支持をうけたか、つまりよく売れたか、はおよそ評価の対象にならないようである。
どうも日本の「文壇」(というものがまだあるなら)そのものが病んでいるとしか思われぬ。
それは、まあどうでもよいことではある。どうせ読者は自分が好みとするところを読むばかりなのである。
最近になり、ブログというものが出現し、わたしも一年前ほどから頼まれもしない駄文を弄するようになった。
頼まれもしないし、もちろん原稿料が出るわけではないから、書く書かぬは自分次第である。書いてもいいし書かなくても誰も困らぬ。
それでもこれまで毎日のように何かを書いてきたからには、きっと書きたくてしかたがなかったものであろう。まるで他人事であるが、そう思うしかない。
ここ三日はとても何かを書きたいとは思わなかった。しかしもしやこんな拙いものでも待っていてくださる読者の方もおられるかと思うと、それが唯一の励みであるし書く理由でもあろう。
ブログなんぞというものがなかったころ、わたしが何かを書こうとは少しも考えてはいなっかた。
そのころ頭にあったものは老子の一説、「知者不言、言者不知」であった。
「知る者は言わず、言う者は知らず」、実に真実を言い当てた言葉ではないか。究極の表現は沈黙である、そのことを知った上での文章表現でなくては、何も言ったことにはならない。
言を変えれば、たとえばあのような多量の作品群を生み出した作家たちの、黙して語らぬことに思いを至らせねば、実は何も読んだことにはならぬ、ということである。
このわたしの文章感は、いわゆるポスト・モダンの考え方、テクストに表現されたものがすべてであり、作者の知らず覚えず表現されたものを読み取る、というものとは違っているのだが、おわかりだろうか。
仮に、ある人が一切の表現をなさず、一句の文章も書かなかった、という状況では、上記ポスト・モダン的方法ではどうにもなるまい。
三日ブログを休んで沈黙の大切さに思い当たったしだいであった。そしてイザとなれば、といってたいしたこともないのではあろうが、沈黙を選び取る勇気をもたねばならぬ、とひそかに心に決めたのだ。そのうえで書きたければ書くしかないのであろう、と。
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