放置モードにしてからもう二月近くになる。
当然ながら訪れる読者はいない。
それをよいことに深夜眠れず考えたことを書いてみることにする。
本宅も隠居所にも書かないことが書けそうだ。
これこそまさに独り言であるが、ひそかに公表するというのも趣味が悪いかもしれない。
ただ何かのメッセージやインフォメーションを書くわけでもないので、肩の力はもちろん抜けている。
秋の夜は深い。
木々はゆっくりと呼吸をしてすがすがしい夜気を吐き出してくれている。
こんなときには来し方のあれこれを思い出して楽しむのもよい。
苦々しく飲み込んだあれらシナでのできごとも何の感情もなく思い起こすこともできそうである。
しかしまだ時は至らず。
あれこれの文章にすこしづつちりばめて行くしかないだろう。
実はもう思い出したくはないのだ。
いまはもう別にたいしたことではなかったようにも思える。
もちろん告白趣味はないから忘れてしまえばそれでいいのだ。
懐かしくこびりついた楽しいことの湯にひたって忘れてしまおう。
上海の秋は長雨だった。
まるで梅雨のように雨の日がつづいた。秋輪というのだったろうか。
宿舎の門番も退屈そうな毎日だったろう。
いつも心をどこかへ遊ばせながらいつまでもタバコをふかしていた。
名前もわすれたその老人ももう生きてはいまい。
どこか江蘇あたりの訛りの強いことばで聞き取りにくかった。
釣りが趣味だといっていたが、いったいどこで釣りなどできたのであろう。
太った体に歯の抜けた口元でいつもきげんよ挨拶をしてくれた。
今となっては彼がいちばん懐かしいシナ人である。
別れのときにたくさんの子供がまとわりつく布袋(シナでは弥勒菩薩)の焼き物をくれたっけ。
あれはどこに行ってしまったのだろうか?
記憶のどこかにまぎれこんで一向に思い出せない。
きっと大切にすべきものであったろうに悔恨に堪えない。
もう二十数年前のことである。
そう彼は姓を「黄」といったのだ。しかしワングと発音していた。
もうこの世では二度と会うことはあるまい。
かれはなんでまたわたしにああ親切にしてくれたのだろうか?
それもなにかの因縁であったものか。
あまり突っ込んだ付き合いにしなかったのがよかったのかもしれない。
人との関係は、とくにシナ人とはそうであらねばならない。
老黄、またどこか別の時と世界で会うときまで
ごきげんよう・・・
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