マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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この稿は≪夢想千一夜≫の
のための解説版としてエントリーしました。よろしければ、ついでにご覧ください。
ベルギーの作家・ローデンバックに、小説『死都ブルージュ』があるが、ブルージュ自体は死んではいない。ただ土砂がつもって港が使用不能になったため、かっての貿易港としての繁栄を失い、死んだような街となってしまった、ということだ。その街を背景に、死んだ妻の幻影を街でであった女に見て、その幻影を追いかける、というのがその小説に筋である。ブルージュ(フラマン語読みでは「ブルッへ」)は、いまはベルギー有数の観光都市として栄えている。
しかしそれは破局のときそのままの死者の街である。
エルコラーノ(Ercolano)は、ナポリからポンペイへ行く途中の海岸にある。ポンペイと比較してかなり小さく、半日もあれば全体を見学できる。ポンペイが全日かけても見切れない規模であるため、ローマ時代の建築生活様式を一望するためにはエルコラーノのほうが便利であるが、ポンペイほど有名ではないので訪れる観光客も比較的少ない。
わたしがそこを訪れたのはもう十年近く前になる。ちょうど友人の結婚式に招かれたのを機会に、それまで訪れようとして果たさなかった思いを果たしたのである。現エルコラーノ市の中心街の坂を降りたところに遺跡の入り口がある。そこを入るとすぐ右手下に遺跡が広がっているのだ。それはベスビオ山の裾野が海へとなだらかに落ち込むその一角に位置している。
20世紀(1927年)になってブドウ畑であった場所に偶然発見された旧市街の遺跡は、地下20メートルの土の中から掘り起こされたのである。だから新市街から見るとちょうど崖下にあるように見える。豚児は、そうしてしばらく、つり橋のこちら側の小さな広場で遊んでいたが、そのうち母親の不在が不安になったのか、今度は母を呼んで泣き出すことになった。
遺跡から何事か不安にさせる雰囲気を感じ取っていたはずなのに、それよりも母の不在のほうがより深刻な事態となったもようである。そこでわたしは豚児を腕に抱えて入場した。なぜなら彼は絶対に歩こうとはしなかったからである。しかもわたしの首筋にしっかりとしがみついたその力の入れようからも、彼の遺跡への惧れが消滅したのではないことを物語っていた。わたしは彼を抱く腕に力をこめて彼を守る意思表示とした。
遺跡自体は、ほとんどポンペイと同様であった。しかし、ローマ時代の建築の特徴である中庭、玄関を入ったすぐにある天井の開いた雨水受け場、共同風呂、壁画などが、こじんまりとした場所にすべてがまとまっており、短期間でそれらを堪能できることはポンペイより優れている。ポンペイ見学もすばらしい経験であったが、とにかくその規模の大きさによりまず足が疲労してしまった。
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