マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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さきに登場してもらったことのあるナポリの友人である。彼女はやっと定職を得て北イタリアに赴任していったことは述べた。( もう晩秋の気配 )
イタリアで定職を見つける事の困難さを日本人の皆様は想像もできまい。
彼女は、大学卒業後十余年にして初めて定職を得たのである。その悦びや如何、とこれは容易に想像できるであろう。
しかも教職である。公務員である。だからその困難さは非常なものがあったのである。十余年来、彼女は教職希望のウエイテイング・リストにその名を連ねていた。
そしてそのリストの上位者から順に職をえてゆくというシステムだそうな。そのためには離島での臨時教師をして点数をかせぎリストのランキングを上昇させねばならなかった。
またそれだけでは家計の用に充分ではなく、旅行者相手のイタリア語講師などもして日銭を稼いで来もしたのである。
元来、故郷の近くで職を求めていたが、そうもうまくはゆくものではない。ナポリから列車で8時間の北イタリアの辺鄙な養護学校に空きが出て、迷った末にやっとのことで決心したらしい。
その結果の文化衝突的居心地の悪さが彼女にあったことは、すでに述べた。
しかしその後、ハナシを詳しく聞いてみたところ実に興味深いものであったので、ここに紹介する。
その学校には、ある臨時雇いの女性教師がいて彼女が得た職をもとから狙っていたのだという。
そして言うには、貴女のせいで私はその職を得られなかった。わたしにとってその職がいかに大事なものであるか貴女にはわかるまい。あなたなんかまたナポリへ帰ってしまえばいいのだ。
と、面と向かって直接はげしい言葉で言ったのだという。
日本人のあなたには想像もおつきにならないであろう。ナポリ人の彼女も深く傷ついたそうだ。
だがしかし、このハナシを聞いたわたしは思わず妻と顔を見合わせてしまった。そして妻もまさにわたしと同じ事を考えている事を察したのである。
すなわち、その臨時雇いの同僚はなんともまあフランス的か、ということであった。
フランス人の言語表現はまさに直接的であり攻撃的である。心に思ったことはすべて言い表すを以って良し、とするのがフランス文化のエートスである。
しかしその同僚はイタリア人である。
ただその地方がイタリアはピエモンテ州の中でもフランス国境近くにあり、またピエモンテ州も長くフランスの影響を受けた土地柄であるから、そのような文化的風土ができあがっていたものと見える。
妻はいちどトリノを訪れたことがあり、その街並みのフランスっぽさを語った事があった。
しかし、見かけばかりではなく、その人情世情もかなりフランスなのであることが今回の事でよくわかった。ナポリ人の奥ゆかしさとはまさに雲泥の差である。彼の友人のこれからの苦労がうかがわれる。
妻はポツポツと自身のパリ遊学時代の話を語り始めた。
彼女が住んだのは、サクレ・クール寺院のそびえるモンマルトルの丘の下の今はアラブ人街と化したあたり一帯の安アパートであったという。
階下には老女が一人住まいであったそうな。たぶん若き頃は娼婦でもあったものかケバイ化粧で派手な衣装の見栄っ張りの女であったそうだ。
普段はほとんど付き合いもなかったが、あるとき階段で突然声をかけられ、指輪を買ってくれないかと聞かれたそうである。
その女は、そうして身の回りのものを処分して年金だけではたらない生活費の足しにでもしたかったのであろう。
しかし銭もないしその指輪が気に入りもしなかったため婉曲に断ったそうだ。
その場はそれですんだ。
数日たったある日、その老女が彼女に対し急に攻撃的に批難を始めたという。階段のゴミは、彼女が落としたものでいつまでも処理しないのはけしからん、ということだ。身に覚えのない彼女は、そのあまりに一方的な決め付けと口汚い罵りに怒り心頭に発し、それでもせいいっぱい怒りを抑えて弁明し効果がないので口論を中止してしまったそうだ。
結果は、フランス的には愚妻の負けである。フランス文化に従えばあるだけの言葉を尽くし徹底してその女を論破しなければならなかった。しかし愚妻もしがない留学生である。フランス語ではフランス人にはかなうはずもないのだ。
好き嫌いは別にしてフランスとはそういうところなのである。そればかりではもちろんないが、フランスの一面の真実である。
その女は孤独で寂寞とした生活に耐え切れず愚妻とコミュニケートしたかっただけなのかもしれない。しかしその方法がフランス人以外にはなかなか理解はしがたいということである。
これはフランス文化の一翼を担うベルギーにもみられる現象である。それゆえにピエモンテでもそのとおりなのであろうか。
フランスは眺めるだけが愉しく美しい。わたしは金輪際フランスに住もうなどとは考えない。もちろんフランス語ができない、ということもある。
しかしそれでもわたしは大学に進む際、シナ文にしようか仏文にしようか、と迷ったこともあるくらいなのだ。結果はシナ語シナ文学を専攻したわけであるが、後に激しく後悔した。もちろんそのあまりのつまらさにである。そして仏文を選択すればよかったに、とも。
その後、欧州に住むようになり各国各文化にも親しむようになった今は、もう後悔はしていない。外国文学、外国文化にいくら深く親しんだところで所詮その国の人間にはなれぬし、わたしは結局のところ日本人として生き死んで行くしかないのだから。
数十年をパリで暮らしパリで逝った哲学者の森有正に名言がある。
われわれは日本人として生まれるのではなく日本人として死ぬのだ。だからどのような日本人として死ぬかが問題なのだ。われわれ一人一人がそうして日本人を定義するのだ、と。
わたしはこの言葉を頼りにこれからも生きて行くことになろう。