マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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最近、「Squall Parka」というアウトドア用の上着を「Land´s End」という米国の通販商から輸入した。色は深いオリーヴ・グリーンである。「Parka」とは元来、エスキモーと俗称されるイヌイット人の着るアザラシの毛皮で作られた上着のことである。しかし今では、その形に似せた類のものもすべて「Parka」と呼ぶ。
「Land´s End」は、かの「L.L Bean」と並ぶアウトドア衣料の老舗であるが、どうも最近の「L.L Bean」の質がいまいち納得できない。「Made In China」製品が増えたせいであろうか。とにかくわたしはもうほとんど「Land´s End」党である。
ドイツにもその支店があるのであるが、なにせわたしに合うサイズをとりそろえておらぬのがけしからん、そこでわざわざ米国から取り寄せるのである。郵送費と輸入税を支払ってもまだ幾分ドイツの価格より廉い。ユーロ高のおかげである。
さて、件の「Squall Parka」であるが、着てみて軽く暖かくすぐに気に入ってしまった。わたしはもう四年来、同じ「Land´s End」の「Squall Jacket」を愛用しているのであるが、ジャケットゆえ尻が丸出しであるので、車の運転には便利であるが、外歩きには寒い。その点、パーカなら安心である。カタログには零下20℃まで暖かい、と書いてある。まあそこまで冷え込むことはまれであるから、もうこれでこの冬は安心ということだ。
その新しいパーカを着て思い出したのが、30年前に愛用していた「Fisherman Coat」である。色合いといい形といいそっくりなのだ。しかしあのコートは重かった。「Fisherman」とは「釣り師」なのか「漁師」なのか定かではないが、「釣り師」とかってに解釈して着用していた。そうわたしがまだ釣りを趣味としていたころのことである。
わたしはサケマス類を山の湖水で狙うことを専門の釣り師(のヒヨコ)であった。趣味のご同輩ならとっくにご承知であろうが、その類の魚類をそんな地方で攻めるのは、これは人生修行というに相応しい苦行なのである。
なぜかといえばこうである。山の湖水といえば美しいイメージを抱かれる方が多いことと思われるが、しかし釣りにかなった条件とは、まず気候的には曇りまたは雨である。時間は朝まだき、あるいは夕暮れである。つまり薄暗く湿った薄ら寒いことが好条件ということである。
天気の晴れ晴れとした陽光の降り注ぐ気持ちのいい午後、などという条件では、人にはうれしいものであるが、サケマス類は鬱陶しいと感じるらしく深みへもぐってしまい、とてもわたしと遊んでいただく気分ではないようであるからだ。
霧の立ち込めるような朝まだき、あるいは小ぬか雨のふる夕暮れなどに、お魚さんたちは浅瀬にあらわれ、岸の潅木の葉などから足を滑らせ水面に落ち込んだ羽虫などをここぞとばかりお召し上がりになるのである。
そこへめがけて羽虫に似せて作った疑似餌を打ち込むのだ。この釣り方を「Fly Fishing」という。英国起源の紳士のスポーツ・フィッシングがこれである。
つまり魚を人間の知恵でだまそう、というわけだ。わたしもすっかりそう信じていたので、今からすればとんだ思い上がりと頭を垂れる。
そうわたしはもう釣りは止めているのだ。やめてもう20数年になろう。
当時はおろかにも大枚の銭を道具や衣類につぎ込んで、やれ奥日光だ、丸沼だ、野反湖だとおもに群馬県の湖水地帯を攻めていたものである。関東ではその一帯がルアー釣りやフライ釣りのメッカと言われており、かの開高健大師もルアー釣りを始められた当初はお好みの地方であったようだ。
この疑似餌釣りというものの特長を一言で申せば、「釣れない」というに尽きる。つまりお魚さんたちは愚かな人間が考えるほど阿呆ではない、ということである。あるいはただ単にわたしの修行が不足していただけかも知れない。小雨の中の夜討ち朝駆けを繰り返して、さて一匹を釣り上げればまあ良いほうである。
しかしその一匹に釣りのすべての醍醐味があること、開高大師も諭してくださったとおりである。
それゆえに、わが敬愛する某御大のように、何十匹も釣り上げたと嬉々としてブログご報告されるような釣りとは無縁の釣りなのである。わたしや同輩にいわせれば某御大のような釣りは「漁」なのである。「漁」は漁師にまかせておこうや、われらはあくまであの一匹を釣り上げる感動を追及する孤独な求道者でありたいなあ、というのがわれら「山釣り」しかも「疑似餌釣り師」のポリシーであり言い訳なのである。
ここは、現役の山釣り師であり寸言本質をえぐる時局評をイザにて繰り広げておられる某氏なら同意されるはずである。
考えてみてほしい、やれ百人切り千人切りなどと数を競ってみる虚しさを。ブログ・ランキング何位とかいくらアクセス数があった、などと一喜一憂するも同様であろう。事は数や量の問題ではない、のである。
おわかりであろうか?
荒行苦行のすえに初めてヒットした時の竿にくる手ごたえの歓喜。ゆっくり引いて引かれて弱らせたあげく釣りあげた虹鱒の輝く魚体。その生々しくも華麗な虹色の帯。そしてそれをぐっと押さえつけて針を抜くときの勝利感と征服感。そのまま水に戻してやるときの自然主義者としての自己満足。あるいは食用に残した魚体が死んでゆくときの有様を見守る生者としての優越感。そしてついに死した魚体からあの虹色の帯が消滅する時に感じる生の儚さ。
嗚呼、なんという遊びなのであろう釣りというものは。そしてわたしはその遊びには耐え切れなかったのだ。あまりに辛いその苦行難行と引き換えのエロチックな歓喜、なんと隠微なものではないか。しかしわたしは悔いたのだ。あのような無益な殺生を、高慢にも遊びと称して、しかも自然主義者ぶってとり行っていたのであるから、今の私にはなんとも自分が哀れで恥ずかしい。わたしはやはり仏教徒なのである。
願わくば、死せるお魚さんたちが無事輪廻の中から魚以外の者に生まれ変わっていてくれますように。わたしは、死後に魚類には生まれ変わりたくはない。それゆえ今はただ悔恨と祈りの日々を送るばかりなのである。某御大にも一日も早く悔い改める日が訪れますように。
しかし仏教徒ではない某御大の覚醒は望めまい、おそらく。
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