マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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【再録に当たって】
≪ドイツ生活ああだこうだ事典≫と銘打ちながら、「羊頭をかかげて狗肉を売る」ばかり、イタリアについてああだこうだしていたのでは、シナばかりを責めることはできませんね。
事のついでに、以前イザ版にアップした須賀敦子さんについてのエントリーを再録しておこうと思います。書いた本人に愛着のある文章の故です。
「登場したそのときからすでに完成された作家であった須賀敦子は、わずか八年間だったが「うかうかと人生をついやす」気配などみじんも見せず、旺盛な創作意欲を示しつづけて珠玉のごとき作品群を生み落とした。なのに突然、人にはとうてい忘れがたい記憶をとどめたというのに、自身はあの意思的に響く特徴ある靴音とともに、「アスファデロの白い花が咲く野」を、ひとり足早に歩み去ったのである。一九九八年三月二十日早朝であった。」
関川夏央氏が須賀敦子著『ヴェネチアの宿』文春文庫版の解説として記した文章の最後の部分の引用である。
ある時いきつけの日本書店でふとその表紙の美しさに惹かれ手に取ったその文庫版が、須賀敦子との出会いだった。その表紙で、船越桂氏の『澄みわたる距離』と題された彫刻がなにか特別な精神性をあたしに訴えかけていた。
関川氏は好きな文章家である、そう文章家というのがまさにふさわしい文章を書かれる作家とひそかに尊敬している。その関川氏のこの解説文を読んでこの文庫を買うことに決めた。
『ヴェネチアの宿』に収められた作品は、小説とも自伝ともつかぬ文章であった。がしかし小説とはなにか?よい小説はいつもそういう問いかけを読者に投げかける。その意味では、それらの作品は小説かも知れない。
読了して、作家のことを想った。いったいどういう人だったのだろうかと。その自伝的作品からその生まれた家の格式の高さと裕福さがわかる。まだ海外渡航が不自由なころフランスとイタリアに留学できたことでそれが知れる。また描かれた父上の様子からもそれがわかった。作家が、意思の強いそして感受性の鋭い明敏な頭脳の持ち主であることもわかった。
がしかし、それだけではない、この作家の何か他のものがあたしの心のどこかを静かにうち続けるのが感じられた。
もっとその作品を読まねばならぬ、そう思った。
それは作家が亡くなって数年たった後のことだった。海外に居住し、しばらく日本の文学とは離れた生活をしていたためその短い作家生活のことを迂闊にも知らなかったのである。