マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
新学期も始まりお忙しい毎日かと思います。
あなたの文章を読むと、いつも知らずと哀しみがあふれ、野辺にひそかに咲く野草を想います。
義姉は野草摘みが好きで、彼女が可憐な花々を嬉々として手折るのを見るたびにこころが痛むわたしは、なにもいいませんが、そっと咲かせておけばいいのにと、いつも思います。
彼女は決してひどい人ではありませんが、ヨーロッパ人の常か、あくまで人間中心主義なのです。
しかし菜食主義者で、動物にたいする愛惜の念は充分もちあわせているのに、植物にたいしては残酷です。彼女にいわせれば、「だって、動物とちがって、植物に意識やココロはないでしょう」とのことです。
あたしたち日本人は、ちいさな虫の音や、草花にたいする慈しみをもつ文化を有しています。仏教で言う、「一切衆生悉有仏性」の考えは、彼女はどうにも理解してくれないようです。
そんな文化意識で欧州に住んでいると、傷つけられることも多いということがおわかりになるでしょう。
さて、文章によっては語りつくせぬほどの悲しみを、いったいどうすればいいのでしょう?
音楽や絵画で表現できる才をもった方々は幸せです。それらも言語表現ではあるのですが、文章に書き表すのとちがって、思考そのものに直面することがありません。
いわば無意識層で問題を処理することができるのですから。
いかに多くの人々が、その苦しみや哀しみを表現することなく、自分の中に抱え込んだまま生を終えていくことでしょう。
しかしあまりの重さをもつこころの負担は、やはりなんとかして言語表現化して自分の外にだしてやらなければなりません。
≪集合無意識≫(Das kollektive Unbewußte)とは、C.G.ユングの創出した概念ですが、人が共通にもつという無意識のことです。それあらばこそ、人と人は理解しあえるものなのだと思います。
書いた文章の意が、うまく他人につたわるという保障はありません。でも自分のためだけでも書いてみる意義を有する事もありますよね。あなたも、もうとうにおわかりのことと思います。
最後に、野辺で見つけた野草をあなたに捧げます。ではお元気で。次の文章を楽しみにしています。
Wisenschaumkraut