マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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東独の国境では、もう日が暮れていた。国境警備員と税関職員がきて、ヴィザを売る。さていくらくらいであったものか、あまり記憶にない。三千日本円ほどであったろうか?
しかしそのクールな手際のよさ、さすがドイツと、感心した。
ベルリンに到着したのは、その日の夜遅くだった。
街は暗くほとんど灯りも見えない。
フリードリッヒ・シュトラーセ駅が「国境」になる。そこは「壁」の駅である。
マシンガンを抱え、シェパードをひきつれた国境警備隊員がねんいりに各車輌をチェックしていく。
西への逃亡者を警戒しているのだ。
座席の下、コンパートメント上の天井、人の隠れられそうな場所は虱つぶしにチェックしていく。
その軍用犬のはく鼻息が大きく車輌に響く。みんな息をひそめているからだ。
ホームの上方の金属製のブリッジにもマシンガンをもった隊員が行き来している。ことあらばすぐ発砲する構えである。
そのマシンガンが電燈を反射してにぶく光った。軍靴のコツコツという音が駅のホールに響いた。
ながいながい時間が経過したように思われたが、正味十数分であったかも知れない。
やっと国境警備隊員が去って、列車は次の停車駅、西ベルリン最初の駅、ゾー(Zoo)にむかってゆっくりと走り出した。
1985年5月であった。
最後の7日目になった。
列車はポーランドの平野を走っている。一面の麦畑である、もう少しで収穫であろうか?
線路ぎわに野ウサギがでて、のんびりと日向ぼっこさえしている。
畑の間の野道を、一台の古いスコダが走っている。世の中すべてこともなし、というかのごとき田園風景であった。
ほとんど一日走って、列車はワルシャワに到着した。
街並みや道路も、すべていかにもヨーロッパ然としたヨーロッパである。
人の服装も、ロシアよりはるかに垢抜けている。その色使いや形もシックである。
またあのバレー団の女の子たちを思い出す。
列車はワルシャワ駅の郊外電車ホームの脇に停車した。それゆえこの街の人々の様子をかなり丹念に観察することができた。
結論。ワルシャワは、東側にはふさわしくない。
こんなあたりまえのようで誤解されやすいことを、いまさらながら確認した。
しかし、この感想は、ずっと後にポーランド人の同僚に話をしたさい、思いもよらぬ事実によって訂正されることになった。
事の始まりは、食堂車であった。ポーランド通過の際は食堂車が接続されていなかった。そのことを話したときに、その同僚は、苦い顔つきでこう話してくれた。
「たしかにその年も豊作ではあった。しかし国民は飢えていた。小麦粉に大鋸屑(オガクズ)をまぜてパンを焼いたほどだよ。」
「わかるかい?せっかくの豊作も、すべて社会主義の兄貴のために供出させられてしまったからだ。」
物事というものは、表面的には推し量れないものであることを、その時また知らされた。
一日かけてロシアのヨーロッパ部を走る。風景はシベリアのように単調ではない。
新しく入れ替わった乗客たちと、また話が始まる。ただし、ポーランドのバレー団の姿が見えないのが残念だ。
シナで3ヶ月、シナ語を勉強したという若い英国人とあれこれ話しこむ。短期にしては、よく理解がすすんでいるようだ、さすが殖民地主義の後裔ではある。
短期留学の学生証を利用して、かなり奥地までおとずれているので驚く。
オーストリア人夫婦は、個人旅行での滞在だったらしい。
列車がヨーロッパにはいったので、みなリラックスしたようすである。
食堂車で、ボルシチと黒パンの食事をとる。
さすがに不味い。とくに黒パンは、その後ドイツで眼にした(口にした機会は少ない)ものより一層の黒さであった。
その食事をとりながら赫然として悟ったことがあった。
上海で、いわゆる西洋料理とされるものは、じつはロシア料理であったことだ。
陝西南路に『紅房子』(Red House)という、有名なレストランがある。それは上海人の誇りとする西洋料理店であった。たぶん今でもそうであろう。しかし建替えられてしまい昔の面影を追う事もできない。
旧フランス租界にある、西洋料理といわれていたので、フランス料理と思い込んで試してみたが、とんでもない代物であった。
その味が、ロシアを走る列車内で彷彿とされたのあった。『紅房子』のそれは、ロシア料理であったのだ。
そういえば、おしゃれなスポットといわれる上海淮海路の『老大昌』や『海鴎』で商われているパンやケーキも、すべてロシア式であったのだ。形や味に合点がいかず、フランスパンもシナ式にアレンジしてあるのだとばかり思い込んでいた。
それがすべてこの道中で明らかになった。
ロシアを「大哥」(あにき)として崇めていたころの名残であろうか?
疑問が氷解するときのすっきりとした気分に、なにかやるせないものが含まれていた。
今はもう夢とも現(うつつ)ともつかぬ、ただ大脳皮質のどこかにこびりついたシミのような回憶になってしまった。
男の運転する古いアルファ・ロメオは、あちこちガタピシいわせながらもどうにか動いていた。
もちろん信号は、他の車同様に無視をして通り過ぎる。
トレド通りを北に向かって、ダンテ広場の手前を左に入った。そこは名高い、かのスペイン地区である。
薄緑の街灯が妖しく町並みを染めている。夜だというのに通りで遊ぶ子供たちがいる。
夜間あえて踏み込みたくない場所であるが、男はカラビニエリであるし、車から出なければいいからと、やや安心してガイドをまかせた。
通りに駐車した、おもに古いフィアットなどの車で、完全な形をしたものはひとつとしてない。
片方のランプがない、バンパーがない、ドアがへこんでいる、屋根がぼこぼこである、などなど。住民の荒んだ心持が伝わってくる。
あちこち一回りしてくれたが、見れば見るほど心が沈みこむ風景である。
最後のほうでは視線はその風景に向けられてはいるものの、もう何も見てはいなかった。
さて、70年代ものアルファ・ロメオは、そこを出た後、海岸に沿ってしばらく走り、そして高台のナポリ湾が一望にみわたせる岬に達した。
背後に薄黒くベスビオスがうずくまり、手前右にはこれもまた墨を流したようなナポリ湾。そこに突き出した卵城が照明をうけて浮かび上がっている。
左の高台は、サン・マルティーノがこれも照明でナポリを祝福するように光っている。
その下あたり、こまかく薄緑の街灯に区切られているのが、いま通りすごしてきたスペイン地区であろう。
こうしてみると何も感慨はない。ただの市街地のようにしか見えない。そこに住む人々の気持ちも何も伝わりはしない。
ただ街は闇の中に沈み込もうとしているばかりである。
このシリーズは、イザ版で主にシナを対象に続けてきました。
そこからはみでるものを、こちらにアップしようと思います。イザ版同様ごひいきに。