マルコおいちゃんのドイツ生活ああだこうだ事典 |
≪Bar di Marco≫から旧名に復帰しました。 |
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この稿は≪夢想千一夜≫の
のための解説版としてエントリーしました。よろしければ、ついでにご覧ください。
ベルギーの作家・ローデンバックに、小説『死都ブルージュ』があるが、ブルージュ自体は死んではいない。ただ土砂がつもって港が使用不能になったため、かっての貿易港としての繁栄を失い、死んだような街となってしまった、ということだ。その街を背景に、死んだ妻の幻影を街でであった女に見て、その幻影を追いかける、というのがその小説に筋である。ブルージュ(フラマン語読みでは「ブルッへ」)は、いまはベルギー有数の観光都市として栄えている。
しかしそれは破局のときそのままの死者の街である。
エルコラーノ(Ercolano)は、ナポリからポンペイへ行く途中の海岸にある。ポンペイと比較してかなり小さく、半日もあれば全体を見学できる。ポンペイが全日かけても見切れない規模であるため、ローマ時代の建築生活様式を一望するためにはエルコラーノのほうが便利であるが、ポンペイほど有名ではないので訪れる観光客も比較的少ない。
わたしがそこを訪れたのはもう十年近く前になる。ちょうど友人の結婚式に招かれたのを機会に、それまで訪れようとして果たさなかった思いを果たしたのである。現エルコラーノ市の中心街の坂を降りたところに遺跡の入り口がある。そこを入るとすぐ右手下に遺跡が広がっているのだ。それはベスビオ山の裾野が海へとなだらかに落ち込むその一角に位置している。
20世紀(1927年)になってブドウ畑であった場所に偶然発見された旧市街の遺跡は、地下20メートルの土の中から掘り起こされたのである。だから新市街から見るとちょうど崖下にあるように見える。もと競馬場だった「人民広場」をつっきって西へ向かうと威海路にでる。そのままずっと西へ向かい茂名路を南へ折れてもとのフランス租界へ道をとるのが慣わしだった。
その道筋の交通量が比較的少なかったからだ。自転車走行にはそれがありがたかった。
また当時の威海路はふるい上海式の建物が連なりいかにも庶民が暮らしているな、という風情が味わえたからでもある。いまはどうなったかは知らないが、一階はブロックを積み上げ、二階は木造建てという様式が日本人には珍しかった。
歩道にもろもろの生活が屋内よりはみ出ているのを見物するのも興味深かったのである。
冬の日ポカポカする陽気なら、あちこちで街路樹の間にとおした針金になぜか布団の中身の綿だけを日干ししている光景がたくさん見受けられた。
夏の夕、帰りが遅くなったときなど、歩道に椅子をだして家族みんなで屋内のTVを眺めている光景にも出くわした。屋内が蒸し暑すぎてそんなことになってしまうのであったろう。夜には歩道と車道の段差を枕に睡眠している人々もいた。
いわゆる「国際都市」上海とはまったくちがったシナ人の暮らしがそうして歩道に展開されていたのである。
【再録にあたって】
イザにあげたこの物語は98%実際におこった事ですので、記念のためにこちら別館に保存しておこうと思います。
VKL氏は、亡命イラン人であった。英国に留学し工学の学位をとった氏は、シャーの現代化政策を支持し「革命政府」のイスラム原理主義に反対したからだ。
氏は「革命」後も一時は、開明派バニサドル首相の手腕に期待したようだったが、その夢もバニサドル退陣とともに破れ、故郷のイスファハン大学教授の席を棄て国際学会参加を機に英国へ亡命した。
その後、スイス、米国と渡り歩きドイツへ落ち着いた。英語しか離せない氏がえた職はある大学の特別研究員であったが日々の暮らしを英国仕込みのヒューモアで飄々と送っているようにも見えた。
氏は、市内のアパートに一人暮らしであったが、その暮らし向きは仙人かと思うほどつつましいものであった。
氏はモスレムではなくイラン古来のゾロアスター教を密かに信仰しているようであったが、それがどんな宗教であるかは多くを語らなかった。しかしニーチェの『Also
その年の一月末は異常な暑さで春をとびこし夏になったかと思わせるほどの陽気であった。
我々家族は週末いつも日本食を摂りに市内へ出るのであるが、その日はその暑さゆえ普段と異なりインド料理を食べに旧市街へとむかった。
地下鉄の出口にあるカッフェーでぼんやりと外をながめるVKL氏をみつけたのは息子であった。
氏もこちらを見つけとびだしてきた。氏とそんな風に偶然出会うということは珍しかったからである。いつもは同じ大学に勤める家内と約しては家に招いたりしていたものだ。その度に氏は過分なお土産を我が家にもたらした。それらはいまでも我が家にあって氏を思い出すよすがとなっている。
我々はインド料理をこれから食べるのだ一緒にどうかと誘うと、氏はもう昼食は済ませたので一時間後にここでまた会おうというので約してわかれた。
食後の珈琲は店をかえてかなり長く話し込んだ。いつものように氏がもっぱら話し手で英国流のジョークをまじえての話に、こちらはフムフムと相槌をうつ役割であったが、一人暮らしの氏の境遇を思って不満はなかった。
そして家内は二週間後の再会を約して氏とわかれた。
氏がいつもと違い大袈裟に抱擁をしてきたのが気にかかった。しかもその際、氏の頭とわたしの頭がぶつかりあい痛くはなかったがそのカラーンとした軽い衝撃になぜか不安を覚えた。
(続きは次回に・・・)
西ベルリンの分裂時代の事実上の中央駅がゾー(Zoo,動物園)駅だった。
街の明かりがまぶしい。久しぶりの資本主義社会の賑わいがうれしい。にごった水からうかびでて新鮮な空気をいっぱいにすいこんだような気分だ。
車の排気ガスさえ薫り高いものに思われるのは、なぜだろう?
タクシーの運転手も、たぶんトルコ人だろうが、きさくな対応で気持ちがいい。いままでの悪夢を洗い流してくれるようだ。
道すがら、光輝くショー・ウィンドウとそぞろ歩く人々をながめる。
どの顔も満ち足りた表情をみせているように思われるのは、思い過ごしか?
こころがゆっくりとくつろいでゆくのがわかる。
ちょうど大陸から香港へでたときのような気分である。あのときは列車のホームで人々が列を作っていることさえ感動したものだ。
寝る前にひさしぶりに風呂をつかう。案の定、アカがいっぱいでた。
http://members.surfeu.de/home/hobbyuo/imfotbildgraphpictur/Abend_Gedaechtniskirche_Kudamm.jpg
翌朝、ホテル近くのカッフェで朝食をとる。
時は、まさに薫風ふきすぎる五月である。
店のそとの通りに面したテラスに運ばれてきたフランスとドイツがミックスしたような朝食におおいに満足する。
雀やシジュウカラたちがおこぼれをあずかりに、テーブルにやってきて、とびまわっている。この野鳥たちは人間が彼らを害する生き物だとは、いっさい感じてはいないのだ。
パンのかけらをあたえてみると、よろこんで啄ばむ。
おもわず涙がこぼれた。
ああ、やっと人の住むべき社会に帰ってきたのだ、と思った。
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